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HOME > 昆布と食文化 > 永平寺の精進料理と昆布 : 大庫院でのお料理 : 取材記 H19年8月


※この項の写真は、2007年8月、三好良久典座御老師のご許可を得て撮影しました。
㈱奥井海生堂 広報担当 山田郁恵
 暦の上では既に秋なのだが、それも忘れてしまいそうな8月の暑さである。
空調の効いた車内から踏み出したとたん、衣服がしんなりと湿気を吸って重くなっていく気がする。
お山の上は涼しいのかとなんとなく思っていたのだが、むしろ街中よりも蒸すのではないか―
そう思いながら駐車場から歩き出す。朝から雨模様の態を見せていた空から、ついに水滴がポツリと頬に落ちてきた。早めた足をとどめさせたのは、正門に立つ石柱に刻まれた言葉だった。
「杓底一残水 汲流千億人」。
柄杓の底に残った水を捨てずに、流れへ戻したという道元禅師。その故事に思いをめぐらせつつ、再び参道を進む。
  ▲報恩納経塔と祠堂殿。奥には唐門が見える

 聳え立つ老杉のもと、有名な唐門を横に見ながら通用門をくぐり、大庫院へ。
じっとりとした暑さは変わらないが、磨き抜かれた廊下を踏みしめ奥へ進むほどに、しんとした気迫のようなものを感じ、思わず姿勢を正してしまう。

 典座御老師は作務の途中であられたが、訪れた私たちを快く迎え入れてくださった。簡単な挨拶と、作っていただく料理の説明をいただいた後、さっそく厨房へ向かう。

▼清冽な白山水にさらされアクを抜かれる牛蒡や茄子、里芋。
隣では、むかれた後の人参の皮が出番を待っている
よく使い込まれた感のある大きな鍋。厨房には数多くの調理具が整然と並んでいた▲

▲『典座教訓』では什物の整理整頓、手入れの必要性についても説かれている。
 並べられた飯桶は、昭和五年の大庫院改築時より用いられてきたものだそうだ


雲水たちが忙しく立ち働くなかで、典座御老師自ら包丁をふるっていただいた。
人参を拍子木に切り、椎茸の軸を細かく裂く。素早い動きではない。
丁寧に着実に、無駄のない所作は、厨に立たれ続けてきた確実さ、そして長年の修行の顕れかと思う。


▼決まったレシピは無く、
食べる人の体調、食事時の環境、様々な条件に合わせ微妙に味付けを変化させる。


 できたてのお料理をいただきながら、典座御老師にお話をうかがうことができた。
永平寺の一日は朝の3時半に始まるが、料理を作るものは1時半には起床すること。前任の典座から献立や調理法を受け継ぐことは基本的にない(特別な料理を除く)ため、献立はすべてご自身で作られること。ゆえに、普段からレシピの収集を怠ることはない。「外で食事をとる際には、調理者の手許が見えるカウンターに着座するのがよいですよ」とか。

ホールフードの概念が提唱されて久しいが、近頃はともすれば、言葉だけが独り歩きしているかのような印象も受ける。テレビコマーシャルが「モッタイナイ」と声高に叫ぶ、そのすぐ後で食への敬意など微塵も感じられないバラエティ番組が放映される…
そんな現代社会で、飾られた言葉に薄っぺらなものを感じてしまうのは私だけではないはずだ。
だが、大庫院の厨房に立つと、確かに感じるものがある。雲水たちは、普通なら捨ててしまうような部分を、
あるいはアクを抜き、あるいは細かく刻み、あるいは火をとおし、調味し、素材によって工夫をこらして、
一品の料理に仕上げてゆく。それは通常より何倍か手間のかかる仕事だ。

「供養の物色を調弁するの術は、物の細を論ぜず、物の麁を論ぜず、深く真実の心、敬重の心を生すを詮要と為す」と『典座教訓』に説かれている。
「ほとけに仕えて調理する時、材料の良し悪しに関わらず、どんな食材に対してもおおいなる感謝と深い敬いの念をもってとりくむことが肝心」(髙梨尚之『永平寺の精進料理』)という意味だそうだ。
皮一枚、種一つも無駄にしないことは、開祖以来760年間、脈々と受け継がれてきた教えなのである。

「食材への感謝」という言葉の意味。まさにそれを、大庫院で肌に感じることができた。






参考文献:『新永平寺辞典』大本山永平寺 南澤道人、楢崎通元監修  四季社
『永平寺の心と精進料理』大本山永平寺監修/髙梨尚之 調理・執筆  学研   【文章、写真の無断転載を禁じます】   

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