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HOME > 会社情報 > 奥井海生堂について : 社長挨拶(敦賀と昆布)

奥井海生堂について:社長挨拶


天然の良港である敦賀は、江戸の昔から松前貿易(北海道交易)の中継地、いわゆる関西の玄関口として栄えてまいりました。背後に国内最大の湖、琵琶湖をひかえ、その水運を利用して北の産品が京、大阪へ運ばれる交易港として、その地の利の良さゆえに大きな役割を担っていたようでございます。北海道の松前藩が扱う産品の中でも昆布は特に重要な地位を占め、関西で大量に消費されるに従い敦賀にも沢山の昆布が荷揚げされるようになりました。殊に、食文化の礎である京都では特別に品質のよい昆布が望まれました。その用命にお応えすべく、弊舗では、文字通り最高級昆布を求め、北海道に赴き、集めるに至りました。

明治四年創業。士族奥井半吾は、廃藩置県で禄を失い、当時大量に荷揚げされていた昆布を扱い始めました。いち早く良質昆布を取り扱い、加工製造も手がけ、創業者として昆布商の基礎を固めました。その創業の地となりました敦賀市神楽町は、記紀にも語られる由緒ある気比神宮の門前に位置しております。今も尚、同地にて神楽本店としてのれんを守り営業をさせて頂いております。

二代目、辰之助の代には、大本山永平寺の御用達の御許可を頂き、又、京の有名料亭との取引も始まりました。

明治期に配布させて頂いた海生堂の引札


美食家で有名な北大路魯山人の主宰する料亭とのお取引が始まったのもこの頃と聞いております。

写真左:
明治期に配布させて頂いた海生堂の引札



奥井商店三代目、重雄の代になりますと、昆布商としての家業も安定し、多くのお客様のご贔屓を頂いておりました。しかし、昭和の大戦で空襲を受けすべての建物が被災しました。戦後の焼け跡からの復興は、往時の方々も皆同じく相当苦労をし、再建に努めたと聞いております。その最中、焼け跡を頼りに大本山永平寺様の、典座寮雲水の方々が、わざわざ尋ねて来て下さり、ご注文を賜ったことを先代より幾度となく聞いております。それは大きな励みとなりました。その慈悲深いお心、お姿まで今に語り継がれております。報恩感謝の思いを忘れることはございません。このようにして、御本山とは百年にわたり御贔屓を賜わっております。

現在、四代目、奥井隆が"のれん"を受け継ぎ、古くからのお客様に支えられ、家業の昆布商に専心しております。菊花昆布に代表される昆布細工をはじめ、昔のままの手仕事手作業は今でも数多く、昆布の手すき加工など、職人の技を守り継承しております。そして、新たな挑戦も始まっております。平成18年9月には日本の食文化の継承と発展のため、パリで開催された講演会で講師をつとめてまいりました。そのご縁もあり、以来弊社の昆布製品がパリのマルシェにて販売されております。

有名浜の天然良質昆布の仕入れには長年にわたり、最大に力を傾注してまいりました。そして、その高級昆布のうま味をさらに増すために、弊社では専用昆布蔵での熟成がなされております。その為、蔵の整備、拡充にも力をいれております。蔵でむしろに囲われて熟成された昆布は磯臭さや昆布臭が取り除かれ、『蔵囲昆布』として実に深い味わいを持ちます。大手百貨店をはじめ、各方面で高い評価を頂いております。

食材にたずさわる家業ゆえに「食は身と心を養うもの」と常々教えられてまいりました。昆布の出汁の香りには、本当に心が癒されます。心の豊かさは食環境から養われるものと痛感します。食生活の乱れが叫ばれる今この時代にあって、昆布商として、社会的にも伝え残すべきものは大きいものと自負しております。

先人の残された知恵と時代の要請、私どもの力量をわきまえ、皆様の変わらぬご贔屓にお応え出来るよう奥井海生堂は、今後も一意専心、精進を重ねてまいります。




●資料:奥井海生堂とはずがたり (pdfファイル,2692KB)
 昆布の歴史、敦賀と昆布とのかかわりなどをわかりやすくまとめました。

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